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ジャスティス — 雨の速さは変わらない

ジャスティス — 雨の速さは変わらない

toshiyukiarai.com / 小説編

Theme: justice

雨は、いつも同じ速度で落ちてくる。

それでも人は、それを「強い雨」とか「弱い雨」とか、勝手に呼び分ける。
彼は駅の高架下で、それをぼんやり眺めていた。

三十九歳。職業は、会社員。部署は総務。評価は「温厚で、周囲への気配りができる」。

それが彼の肩書きだった。

彼は人に嫌われない。飲み会の幹事を任され、困っている後輩の相談にも乗る。会議では強く反論しない代わりに、空気を丸くまとめる役回りを引き受ける。

誰もが言う。「○○さんは優しいですよね」

彼自身も、そうだと思っていた。


その日、社内で小さな不正が発覚した。

経費の水増し。額は微々たるものだった。関わっていたのは、入社三年目の若い社員だった。

上司は言った。「今回は内々で処理しよう。彼も反省している」

同僚たちは頷いた。「将来ある身だしね」「誰にでも失敗はある」

彼も頷いた。それが”優しさ”だと思ったからだ。

帰り道、彼はコンビニで缶コーヒーを買った。レジ横の募金箱に、小銭を落とす。それも、習慣だった。

善いことをしている気がすると、少しだけ胸が軽くなる。

電車の中で、彼はふと、昼間の出来事を思い出した。

あの若い社員の目。謝罪の言葉より先に、「助かった」という安堵が浮かんでいた。

その表情が、なぜか胸に引っかかった。


翌日、彼は人事部に向かった。

足は重かった。理由は自分でも分かっていた。

告発すれば、あの若者のキャリアは傷つく。部署の空気も悪くなる。自分は”面倒な人間”になる。

それでも。

彼は淡々と事実を伝えた。感情は添えなかった。善悪も語らなかった。ただ、起きたことだけを。

数週間後、その社員は異動になった。

社内では、彼の名前がひそひそと囁かれた。「冷たい人だ」「融通がきかない」「正義感が強すぎる」

彼は否定しなかった。どれも、事実だったからだ。

ある夜、彼は一人でベランダに立っていた。風は冷たく、街は静かだった。

不思議なことに、胸の奥は穏やかだった。

誰かに褒められたわけでもない。評価が上がったわけでもない。

ただ、何かが”揃った”感覚があった。パズルの最後のピースがはまったような。

それは快感ではなく、達成感でもなく、もっと静かなものだった。

真実に触れたときの、人間特有の、深い呼吸のような安心。


正義は、尊いものではない。

それは称賛されるためにあるのでも、誰かを裁くためにあるのでもない。

正義とは、ただそこに在るものだ。

間違った優しさよりも。世間体よりも。成績よりも。

それに触れたとき、人はようやく、自分の輪郭を取り戻す。

彼は空を見上げた。雨はもう止んでいた。